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高齢の母が亡くなりました 還暦の娘としての思い

日々の暮らし

私が還暦まであと2ヶ月ほどの6月の半ば

母は、とうとう父の元へ逝ってしまいました。

葬儀の2週間後に娘が出産し、猛暑の中、産後の世話に気持ちを切り替え

思ったよりエネルギーを使い果たし、とりあえず新米ばあばとしての任務を完了した今、

やっと涼しい秋風が心地よく感じるとともに、

改めて母の存在の大きさ、温かさをしみじみ感じ、恋しく思います。

母のストーリーは終わりました。

たったひとりの私の母のことを思い、母の為に綴りたいと思いました。

 母の人生

母は、昭和一桁生まれの90歳でした。

一男六女の上から2番目。

戦後の女学校時代の楽しい話はよくしてくれていました。

父とは公務員同士で出会い、大恋愛だったと叔母たちから聞いています。

結婚と同時に専業主婦になり、姉と私の二人の娘を出産しました。

今の時代の子育ての話をすると、母はよく

「あなた達は別になーんにもなく育ってくれた。今は大変ねぇ。。」と言ってました

今になって思うのですが、それなりに大変なことはあったと思いますが忘れているのだと思います。

美人で、料理が上手で、人と争うことの全くない優しい母でした。

文章にすると、いいことばかり浮かんできます。

若い頃にはそこまで気づいてませんでした。

父が外面が良くて、休みの日もよく出歩いて家族を顧みないところがあったので、
よく父への不平不満を聞かされていたこともあり、

「愚痴っぽいなぁ」と思ったりしていました。

他にも不満に思っていたことがあったと思いますが、

もう今となっては母の良い面しか思い出せません。

 晩年の母

60代半ばになってからは母にとって結構大きな苦労を抱えました。

そのとき、私も姉も結婚し、目の前の育児で大変な時でしたが、

母を支えようと頑張りました。

そして、それに応えるように、母は私達になるべく心配かけないように

必死で頑張った日々だったと思います。

読書家だったので、たくさんの本も読み、綺麗に花を育て、手ごねでパンを焼き、歩いて歩いて

自分を奮い立たせていたんだと思います

人生の後半、なかなかの辛いことがありましたが、

料理して、花を育て、歩いて歩いて、自分を鼓舞して過ごしました。

 父を亡くしてから

85歳くらいまで、娘家族や孫達に美味しい美味しい手料理を振る舞ってくれていました。

それが、ある朝、父が突然倒れて亡くなってしまってから

寂しさと心細さで、一時は生きる意欲を無くしてしまっていました。

よく父の愚痴をこぼしていた母でしたが、父に頼り切って生きていたんだと知りました。

私達娘との方が楽しく過ごせると思っていましたが、

「私達ではなく、お父さんじゃないとダメだったんやね。。。」
と姉としみじみ話しました。

晩年父は母に優しく、今となれば支え合ったお似合いの夫婦でした。

この5年程の間に何度かの入院や、途中私と一緒に暮らした日々もありましたが,
いろんな段階を経て、去年施設に入所となりました。

その間、母が母でなくなっていく姿を見ることが本当に切なくて辛いことでした。

コロナ禍でさえなければ、もっと側にいてあげれたのに、
そして、まだまだ自分で自分の事をできていたと思うと。。。

思っても仕方のないことだけど思ってしまいます。

病院から今の施設に移動する時、本当に久しぶりに直接母と触れ合える瞬間がありました。

私は母の肩や背中をさすり、「お母さん、お母さん」と呼びかけました。

車椅子の母は、初めてか細い声で泣いて言いました、

「悲しかねえ、会ってもすぐ別れなんもん。。」

親が子を思うように私も泣きました。

私はこの時、“ああ、もう以前の母には戻れないんだ”と実感しました。

職員の方からは「ご飯は大体食べられています」程度の情報ですが、

以前私が母に出したハガキを大事にしていると聞きました

最後に思いついた出来ること

なんで今まで思いつかなかったのか!

今までコロナ禍で、会えない会えないと寂しがってばかりいて、

母の状態もよくわからず、たまに会える、ガラス越し10分。

もう何もできなくなっちゃった母、、、と思い込んでいました。

部屋に飾って明るくなるようなカードと一緒に返信用のハガキを同封しました。

私の住所を書いて切手を貼って、
職員さんに「何か一文字でも良いので母にペンを持たせて書かせてください。そして、
お手数ですが、投函していただけますか?」と頼むと、快く承知してくださいました。

それから10日ほど経って、返信の葉書が届きました!!

字は震えていましたが、しっかりとした筆圧で

『お手紙ありがとう。また会える日を楽しみにしています』

本当に嬉しかった。感動しました。一生の宝物です。

その後、あと2回やりとりができました。

あれ、来ないな、、、と思っていたら

母が救急車で運ばれたと姉から連絡が入りました。

誤嚥性肺炎でした。

あと2週間で初孫が生まれるのに。。。。

 姉の存在

3つ年上の姉は、母の側でいろんな世話をしてくれていました。

なんといっても、近くで日々の生活の面倒を見てくれる姉は本当に精神的にも大変だったと思います。

私は本当に助かりました。

母が施設に入って、姉も肩の荷が降りた頃から、二人でよく昔話をしました。

昭和の私達がまだ小学生の頃住んでいた家の庭にどんな花が咲いていたとか、
母がよく作ってくれていた料理のこと、
お弁当持って家族で出かけた場所、
七夕の時に庭に父が笹を立ててくれてみんなで飾ったこと
等々。

何度話しても尽きることはありません。

姉と話すことによって、私はなんとか癒され、救われていると思います。

そして母も、娘達がいつも自分の話をしてくれて嬉しいと笑ってくれているような気がします。

私がいずれ天国に旅立った時、子供達がこんなに恋しく私のことを語り合ってくれたら
どんなに嬉しいでしょう。

 娘の産後の世話をして また母を想う

娘の出産はもちろん嬉しいことで、初孫は愛おしく感動的な出来事でした。

ただ、お産がとても大変だったこともあり、娘の体調を整えるためのサポートに

全エネルギーを使い果たし、思っていいた以上に還暦の私の体力的にもハードでした。

娘も大変な中、私の体調を気遣う言葉もかけてくれました。

そこで、気づくのが母のことです。

私も2度のお産の際、母に手伝ってもらいましたが、

母は辛い様子を全然感じさせずに、穏やかに面倒を見てくれました。

そして、私は母の体調を気遣うことも全くありませんでした。

今、母にそのことを伝えて、心からの「ありがとう」を母の顔を見て言いたかった。

気づくのが遅い。。。

 私も母のように

高校を卒業したくらいから、母に”ああしなさい。こうしなさい。こんなふうにしたら?”

というような口出しはされた記憶がありません。

私がいろいろおしゃべりすると、笑いながらよく聞いてくれていましたし、

子供のことで心配事があると、一緒になって心配してくれましたが、

私のことは信頼して黙っていてくれたと思います。

私もこれから、母のように余計な口出しや要求を一切しないおばあちゃんになりたいです。

台所でよく鼻歌を歌いながらいろんな料理を作ってたよね。

ひ孫は可愛らしい女の子だったよ。

見てくれてるよね。

そして、またいつか会えるよね。

ね、お母さん!

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